不登校を成長のチャンスに・・・(事例その3)
【 Eさんの場合 】
Eさんは、現在、アニメ制作会社に勤めている。
Eさんは、絵の上手な子だった。手先の器用な子でもあった。
穏やかで、物静かなEさんが、まさか不登校になるなんて、誰も思わなかった。しかし、中学校へ通うようになって、Eさんは、だんだん学校に行けなくなった。
中学校独特の雰囲気がそうさせたのかもしれない。校則などの細かい規制や受験に合わせた学習指導、全員加入のクラブ活動、等々。そうした雰囲気や環境に合わなかったのかもしれない。
全員加入で仕方なく入った卓球部で、地区大会出場選手に選ばれた。本人は出る気はなかったが、出場を迫られ、悩む日が続いたが、結局、試合会場にも行けなかった。
その後、学校へは、ますます足が遠のいていった。
中学卒業後、地元の高校に進学したが、退学、通信制高校に転学した。その後、コンピューターの専門学校に行き、イラストを勉強し、アニメーションの制作会社に就職した。
絵が好きで、上手だったEさん。手先が器用で小物づくり等、創作的なことが得意だったEさんに似合った仕事に就けようだ。
中学校時代の困難や苦しみは、Eさんに必要だったのだろうか。もっと自分の興味や関心を生かし、伸ばせる時間だったら、どれだけよかっただろう。
【 F君の場合 】
F君は、関東の大学に進学し、そのまま、関東の会社に就職をしました。
関東の大学を選んだ時に、F君は、京都には戻らないと決めていたそうです。
F君は、中学の時、野球部に入り、頑張っていました。しかし、部員たちとの関係がこじれ、部活を休みがちになった。
そのことを顧問の先生から指摘、注意され、事情を説明したが分かってもらえず、今度は、学校に通うこともしんどくなっていった。
F君は、高校や大学に行くことを考えていたので、勉強は続けたかった。はじめは週2回、家庭教師の先生と勉強していたが、もっと学びたいという思いで塾に通うことにした。塾へは休むことなく通い、高校へ進学し、大学に進学した。
しかし、中学時代の人間関係のいざこざや不信感は根強く、高校は隣の市の高校を選び、大学は、遠く関東の学校を選ぶほどであった。
両親は、F君の気持ちを理解しようとし、F君にどんな支援が必要かと相談機関にも相談していた。また、不登校を考える親の会にも参加し、子ども理解に努めていた。
F君は、不登校は乗り越えることが出来たが、不登校のきっかけとなった人間への不信感を克服することは難しかったようだが、これから出会う人たちとのかかわりの中で、多くを学ぶことだろうと思っている。
【 G君の場合 】
G君は、今、16才。高校1年生の年齢だが、高校にはいかず、働いている。職業は、版画職人である。中学の時に弟子入りし、卒業と同時に、職人となった。
G君は、小学校1年生の時から学校に行き辛かった。学校からは、「無理をしてでも、来させなさい。」「泣いても、暴れても、とにかく学校に連れてきてください。」と言われた。だから、両親は、二人がかりで無理やり学校に連れて行くことが、2年生まで続いた。
「これでいいのか?」と疑問に思ったお母さんから、私のところに相談があった。私は、事情を聴いた後、親の会に誘った。親の会には、お父さんも一緒に参加され、話し合いを重ねた。G君も一緒に参加することもあった。
G君の両親は、無理やり学校へ行かせることからG君の気持ちに寄り添うことを選んだ。家がG君の居場所となっていった。それとともに、G君理解も進んでいった。G君が発達障害であることも分かった。
G君はいろんなことに関心があり取り組んだ。漢字、将棋、空手、算数等々。さらに、ブラックホールなどにも関心があり、自主的な研究をしていき、レポートにまとめた。
学校でも、担任の先生の関りはなかったが、支援担当の先生がG君に寄り添ってくれた。そして、時々学校に行きその先生と一緒に勉強することもできた。
両親は、G君を理解するために、親の会以外にもいろんな場に参加していった。
小学校の高学年になって、図工で版画に取り組んだ時、両親はその出来栄えに驚き、G君の才能ではないかと、それを生かせる場はないかと考え、異才発掘プロジェクトに参加した。そこで、G君はさらに版画に取り組み、版画を学ぶために、版画職人に弟子入りした。
そして、中学校を卒業して、版画職人として採用された。これからが楽しみである。