不登校でも子どもは育つ・・・(事例その2)

C君の場合】

C君は、中学1年の時に学校へ行けなくなった。グループ(仲間)内のいじめが原因であった。それでも、C君は学校へ行こうと、自分を変えていった。髪の毛を茶色にした。自分を発奮させ、力関係を変えるために。

しかし、今度は、学校、先生たちとの関係に変化が生じた。茶髪のC君は学校に入れてもらえなくなった。校則違反だからである。登校するたびに、先生から髪の毛のチェックがあり、帰宅させられた。

それでも、学校へ行き続けたが、自分と先生がもめることが、みんな(友達や他の生徒)の迷惑になると思い、登校するのをやめた。

C君は、“勉強がしたい”という思いをお母さんに伝えた。お母さんから私に連絡があり、それから中学校を卒業するまで、週2回、勉強を続けた。学校へ行かなくなっても、親しい友達との行き来は絶えなかった。

進路を考える時期にC君の思いを尋ねた。「高校へは行かない、お母さんに負担をかけるから、働く。」「高校へ行きたくなったら、自分の力で行く。」と言った。

中学を卒業したC君は、紆余曲折、多難な時期を過ごした。仕事を転々としたが、働き続けた。仕事を変えるたびに、仕事に合った資格を取る勉強もした。

そうした経験をしながら、C君は、今、29才。板金工場で働きながら、3年間、通信制高校へ通い、この3月に卒業予定である。

[行きたくなったら、自分の力で高校に行くから」と、中学卒業時に言ったとおりに、自分の途を着実に歩んでいる。

C君が、今日を迎えるには、両親の寄り添いと友だちとのつながりが力になっていたと思える。

 

D君の場合】

 

D君は、小学5年生の時に、学校へ行けなくなった。担任の先生の叱責がきっかけとな

り、学校を飛び出し、家に駆け戻った。それ以来、学校に行けなくなった。

D君が学校に行かなくても、担任の先生から、ほとんど連絡はなかったという。学校へ行けない日が続いても、週末に来週の予定がファックスで送られてくるだけ、という関わり方であったという。

中学3年間も、D君は学校に行けなかった。

中学校の対応も、担任の先生の訪問はほとんどなかった。連絡も、週一回、ファックスで次週の時間割や行事の連絡だけだったようだ。

ただ、不登校担当の先生が、時々訪ねて来てくれた。その先生とは話が出来たようで、先生の担当の理科の話は興味を持って聞いていたようである。先生が、宿題のプリントを持ってきてくれ、D君は宿題をするようになった。そして、自転車で、宿題のプリントを学級担任に届けるようにもなった。

そのように、学校や先生との関係を築きながらも、3年間、学校に登校せずに卒業を迎えた。

卒業後、D君は、家にひきこもり、数年間は、自分の部屋からも出ず、両親とも顔を合わせないこともあった。

3年前、D君のお母さんから、「Dが、会いたいと言っているので、会ってくれませんか。と連絡があった。D君が25才の時であった。

D君は「高校へ行きたいんだけど、どうしたらいい。」と聞いてきた。通信制高校、定時制高校、高卒認定試験のことなどを話した。D君が、一歩前へ進もうとした瞬間であった。

その後、新型コロナが世の中を席捲しているが、その中でも、D君は着実に前進している。

まず、原付免許を取った。次に、高卒認定試験の準備を始めて、勉強を見てくれる先生を探した。同時に、漢字検定にも挑戦を始めた。そして、今、自動車の運転免許を取りに自動車学校に通っている。

自分の意志で、一つ一つ前に進んでいる。

両親の根気強い見守りと寄り添いが、かれこれ20年続いている。大したものだ。